入学の頃
私が慶應義塾入学したのは1956年(昭和31年)で、その頃の工学部は1年生の時は日吉、2年目以降の専門過程は武蔵小金井に校舎がありました。
日吉の校舎はそれまで進駐軍に使われていた「かまぼこ」兵舎と呼ばれる小屋でした。
小金井の校舎は横河電機の工場跡の建物でした。
私の専攻は「計測工学」と呼ばれ応用物理系の学科ですが「制御工学」に近い当時としては極めて斬新な学科であったのです。
当時の校舎には冷暖房などはありませんから今のように実験は1年中同じ条件でできるというわけにはいきません。
大学4年の夏休みの時、当時まだ生まれて間もないトランジスターを使っての電子計算機の組み立てが行われるとのことで、それに組み込まれるプログラムのサブルーチンを分担して作ることになり私もそれに参加したのです。全て機械語で書いたものを読み込ませてテストするのですが、大勢で分担して作っているのでテスト用の機械は取り合いになります。
機械の置いてある部屋も冷房はありませんから昼間の部屋は猛烈な温度になります。トランジスターは熱に弱く気温が上がってくると作動しなくなるのです。したがって実験は室温が下がる夜中に始まり気温が上がる朝の8時頃までの間しかできません。各自が分担したサブルーチンを連結してのテストはバグの修正の連続で大変な作業でした。ですから当時はコンピュータを自分で個人で使うようになるなんていうことはとても考えられませんしたし、私自身それにあまり興味は持たなかったのです。
ところがそれが今や自分でプログラムを書かなくても、個人のコンピュータで莫大な計算と仕事がこなせるようになり、まさに新生児のコンピュータを知る者にとっては夢のような感じがしています。
しかしその時経験したことでコンピューターのルーツを知ることができ、またその成長の過程を自分の成長の過程と合わせ見ることができ技術屋である今の私にとってはとてはこの上なく幸せなことと感じているのです。
子供の頃の私はラジオ少年で、よくよそ様のラジオも作り秋葉原に部品を買いにいったものですが、最後はパソコンを自分で組立てる為の部品を買いに秋葉原に行くというもの造りの好きな人生となりました。
牧 壮
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