学童疎開(集団疎開)

学童疎開の思いで


学童疎開(集団疎開)

子供の頃の思い出を辿るとき、いつも真っ先に思い出すのが学童疎開(集団疎開)のことです。
東京に空襲が激しくなってきた昭和19年、小学校3年以上の学童疎開が始まりました。20年3月、私は小学校の3年生になっり私も学童疎開することになりました。小学3年生といってもまだ子供です。親元から離れての地方での団体生活です。
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3月10日の東京大空襲の直後の出発でした。
夜の新宿駅の地下道に集められそこで親とのお別れでした。全員に乾パンが一袋づつ配られました。半分遠足気分でしたが先生からは「途中空襲警報が出たら汽車から離れ逃げろ。そのときの非常食だから無事着いたら戻すように」との話がありました。
行先は松本の浅間温泉でした。何軒かの旅館に分かれて既に4年生以上が暮らしていました。大部屋での雑魚寝ですが最下級生はいつもいじめの対象でした。
温泉旅館に疎開していたのでそれは良かったのですが、3ヶ月後に飯田の先の山の中のお寺に移されました。理由は松本も軍需工場があるのでいつ空襲になるかわからないということでした。
山の中のお寺の本堂での雑魚寝は毎晩蚤とシラミの攻撃で痒くて眠れず、起上がっては薄暗い電気の下での蚤退治が続きました。
また夜中に先生に起こされ教員の部屋に呼び出された何人かの生徒がいましたが、それは東京に残っていた親が空襲で死んだという知らせの為でした。戻ってきた子が布団の中で泣きじゃくっていたことが忘れません。
夜中に見回りに来た先生が何時自分のところにきて起こされるかビクビクしながら寝ていたことを思い出します。

食料難の頃ですから何時も空腹感でした。周辺は山ですからよく桑の実やあけびなどこっそり隠れて食べました。
また勤労奉仕ということで周辺の農家に手伝いに行かされました。縄をなったり稲刈りも手伝いました。蚕のの世話もさせられました。農家に手伝いに行くとお米のご飯を食べさせてもらえることが最大の楽しみでした。
そんな山奥にも米軍の航空機から撒かれたビラが落ちてきましたが、それを拾って読むことは禁止されていました。

終戦は村の小学校の校庭で玉音放送を聞きました。雑音が多くよく聞きとれませんでした。とにかく負けたことそして広島にはマッチ箱の大きさの強力爆弾が落ちたという話聞かされたことを覚えています。
「欲しがりません、勝つまでは」と教えられてきたのですが戦争に負けたということで全員和歌を書かされました。
小学校3年生の私の書いたものは「30年後僕たち頑張って今度は米英やっつける」といったものでした。

終戦になり実際に東京に戻されたのは11月始めでした。学校の周辺は焼け野原でした。幸い住んでいた家は焼けませんでしたが焼け野原は絶好の子供の遊び場でもありました。竹の棒を持って焼け跡の瓦礫を掘り返すと色々なものが出てくるからです。中には四角い穴あきの古銭も出てきてそれを拾い広い焼け野原で投げて遊んだ記憶があります。今から考えると勿体なかった感じですが。
進駐軍の数が増えジープの乗ったアメリカ兵が我々子供達に向かってチョコレートやガムを投げたのを、競って拾ったのもこの頃でした。
一部が黒く墨で塗りつぶされている教科書での勉強が始まりました。

 

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牧 壮
1936年生 慶応大学卒業後、旭化成勤務。定年後に牧アイティ研究所とペナンのリゾートオフィスを開設しシニア向けのパソコン教育とインターネット交流に従事、現在千名を超えるシニアのネットワーク交流を構築。